曽野綾子から学ぶこと

晴れの予報も、曇り。寒い。


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昨日泊まった18歳の大学生の、今回旅に出たきっかけは、
小学2年生の時の家族旅行が楽しくて、その時泊まった宿に今回は一人で来た。

実はあまりないケースなのです。


リゾートホテルに泊まったというなら、大人になったら家族とは別に来たい、というのはよく聞くのだが、このような旅人宿の場合、大人が楽しんでいる間子どもたちは暇そうに(退屈そうに)ゲームなどをしている場合があって、あまりいい思いでは残らない。
きっと彼の場合、親や宿の人たちの計らいで子どもも楽しんだのだろう。


こういう風に次世代につながっていくといいのだが・・・と常々思うのだが、つい大人だけで盛り上がってしまう。


その大学生と高校・大学が同じで、しかも部活も同じだったという人がいて大いに盛り上がった。あの盛り上がり方は体育会系独特のもので、そのうち肩を抱き合って校歌でも唄い出しかねないものだった。
同じ釜の飯を食った(世代を超えて)もの同士の連帯は強い。



ベストセラーになった(今でもベスト10に入っている?)本が
ようやく図書館の順番がまわってきた。

老いの才覚 (ベスト新書)

老いの才覚 (ベスト新書)

曽野綾子さんは1931年生まれだから、もう80歳くらいになる。

高校時代、彼女にあこがれて、「将来はそのような文章を書く作家になりたい」と言っていた才女がいた。

読み始めてすぐに止めようかと思った。

本文より

戦後の教育思想が貧困な精神を作った。

 教育の問題も大きいですね。戦後、日教組が、何かにつけて、「人権」「権利」「平等」を主張するようになりました。その教育を受けた人たちが老人世代になってきて、ツケが回ってきたのだと思います。





ちょうどその頃、朝日新聞は「天皇皇后両陛下にも敬語は使わなくてもいい」と言いました。どちらが、心理的に美しいか。私は、朝日の発想は醜いと思います。



等など・・・・



この人もこれまで数々の困難を乗り越えてきた。



>30代で不眠症うつ病に苦しむが、これらを克服した。


とある。



「強くなくてはならない」というのが曽野綾子の哲学だ。

同じカトリック作家の「遠藤周作」とは全く逆な発想だ。
遠藤周作は「もともと人は弱いものだから失敗もする」というのが根底にある作品を多く書いている。


この「老いの才覚」を読んでいると
まるで純心女子高の朝礼で、「天使にラブソングを」に出てきた「うるさく・こまかい」シスターの校長先生に説教されているようだ。



それでも「何か得るものはあるだろう」と読み続ける。

こんな一文もあった。



現実の暮らしの中では、私は明かに性悪説で自分を律してきました。
カトリックの学校で育ったので、すべてにおいて、いい人などいないことを比較的若い時からわかるようになりました。キリスト教性悪説ですから、人間はそのままにしておけば、人間の尊厳を失うほどにだ堕落することも簡単である。しかし信仰によって、あるいはその人に内臓されている徳性によって、人間を超えた偉大な存在にもなれる。ということをきっちり教えられたのです。
 日本人の多くは、人は皆いい人という性善説が好きですが、私のように性悪説だと、人と付き合っても感動することばかりです。だれでも嘘をつくだろうと思っていると、騙されなかったり、むしろ救ってもらったりする。その時、自分の性格の嫌らしさに苦しむことはあっても、いい人に会えてよかった、という喜びは大きい。







なるほど、ほとんどの人がいい人だ、という人にはつい完璧を求める場合があって、
ほんの少しの欠点でその人全てを否定することはよくある。


僕が教会を離れることになったのも、一部の神父さんの言動や、教会そのものの方針に疑問を持ったからだ。
でも上の性悪説だと、仮に神職者であっても所詮人間なのだから完璧ではない、ということになる。


この考えを持てば「反原発運動」ももっと「まとまりのあるもの」になるかも知れない。