なぜC→G7 →Fでなければならないのか
晴れ。気温15.1度。
暖かく感じる。
特に冬だが、この暖かさというのが曲者で、
「ああ 今日は暖かくなって気持ちがいいなあ もうすぐ春かもしれない
または 今年の冬は暖冬でいいなあ」
なんて思っていると、その数日後(翌日のこともよくある)大嵐がやってくる。
要は低気圧がやってくる→暖かい南風→もちろん冬なので上空には寒気→激しく暖気と寒気がぶつかり合う→大嵐・・・・・となる。
すごく仲のいい夫婦と適当な夫婦に似ている。
すごく仲のいい夫婦→少しのことも許せなく→大決裂
適当な夫婦→たいがいのことは許せる(相手、二人の関係に過大な期待をしない)→適当な日々。
今日のカレーやのBGMでキースジャレットの
どっかの(ケルンじゃない)コンサートのライブ版をかけて聴いていた。
暇だったので、じっくり聴いてみた。
あるフレーズの左手の音階をよーく聴いてみると
なんと5分くらい同じ音階の繰り返しだった。
もちろん右手はいろんなメロディを展開させているわけなんだが、
「変えなくてもいいんだ、コードを」と心配してしまうほど(よけいな心配ですが)
ずーっと同じだった。
それでも違和感なく、むしろ「ある極みに突き進んでいかされる」ような気がするので優れた音楽なのだろうが。
そこで昔体験した不思議な事を思い出した。
「ドソミソおばちゃん」
という(もちろんそのように自己紹介したわけではなく、僕たちが付けた)人が
「私最近、ピアノを弾けるようになった」
と言いながら披露してくれた。
聞き覚えのある童謡。
ドソミソ・ドソミソの伴奏を2小節ばかり弾いた後、メロディも右手で弾き始めた。
ところがメロディがどんどん展開していくのに、ドソミソは変わらない。
ドファラファでもなくシレソレでもなく、ひたすらドソミソ。
しかも堂々と、自信たっぷりに。
キースジャレットだと感動。
おばちゃんだと違和感・不快感・日本酒を飲みながら泉屋のスパゲティを食べ続けている感じ?
でも、もしかしたらおばちゃんには、左手の音階は単なる打楽器のリズムであって(だって大太鼓の音階は変えられないのに普通に聴けるじゃないですか、ティンパニーは音階があるけど)
音楽の常識という固い殻にこり固められた僕たちの方がおかしいのかも
下の演奏はカレーや黒魔術のBGMのものではありません。