最悪の雨

晴れ。気温14.9度。

冬の足音がコツコツと聞こえてきそうな天気。



生まれ故郷の奄美では大変な豪雨で被害がでている。
昨日名瀬の親戚に電話したら
「大丈夫だよ〜 子どもたちは元気ね〜」
という、いつの間にか普通の電話になってしまった。

電話をかける前は、もしかしたら避難所に行っていて電話も繋がらないかも、と思っていたのに・・・。
でも無事でなによりでした。


災害に慣れているというのか、のんびりしてる、というのか。
昨夜のNHK9時のニュースを見ていても


キャスターが
「やっと電話が繋がりました、そちらの様子はいかがですか?」
と緊張感をもって尋ねているのに
「はーい こちらは今雨も小康状態ですよ〜 所によっては停電もしてるみたいですね〜」

キャスタ−はもっと緊迫した電話を期待しているのが明らかだが
島の人たちの受け答えからは全く緊張感が伝わってこない。




僕が小学校3年の途中まで通っていた「伊津部小学校」は
通学路の途中に崖があって(横は海)頻繁に崖崩れをおこしていた。
しかも学校に行く道はその一本だけなのだ。

ある朝、大雨になり、お決まりのがけ崩れが起きた。
(もう50年近くになる過去の記憶なのだが・・・)
普通は休校になる。

ところがこの日は、崖崩れの手前から山道(けものみちのようなもの)を上って学校まで辿りついた。しかも上級生が1年生を背負って。
その時、引率の親か先生がいた記憶がない。でもやはりいたのだろう。


いま考えても、なんと無茶苦茶な事だと思う。
しかしあの頃は、それは普通にあったことかも知れない。

僕が生まれたのは昭和29年。
終戦からまだ10年も経っていない。
よく親からは戦時中の話を聞かされた。


空襲の中を逃げ惑う思いからすれば
(一応ハブはいるが)爆弾が落ちてくるわけでもない安全な山を登って学校に行く、なんてことは、普通生活の範囲内だったのかもしれない。


氷点下20度を経験すると、次の日の氷点下10度は暖かく感じる。
最悪を経験すると、多少のことは乗り越えられる。



北海道のその頃も、悲惨な通学風景があったのだろう。



今の子どもたちは(親は)崖崩れの山を登って学校に行けとはいわない。
吹雪のときは休校にするか、車で送る。



しかし昔の人は「自然災害的」には最悪を経験しているかも知れないが
今の人は「心的」な最悪を経験中かも知れない。

それがどのようなものなのかは、よくわからないが。