エッセイは本当にあったことしか書かないの?
晴れ。強風。
南西の風、19m/s。
気温18度。
けっこう暖かい。
道を歩いていて、
この場所、この場面が好き・・・というところと
何回歩いても、なんとなく嫌いな場所がある。
多分理由はちゃんと付けられるのだろうが
(嫌いな場合)特にその場所に憎しみのようなものがなければ
一種の「のり」として理由も考えずそのまま「いやな場所」として置いておく。
で、またそこを歩く時、「あ やっぱり嫌な場所だ」と納得して過ぎる。
その逆。
何度通っても好きな場所。
ここです。
幼少の頃からキリスト教家庭に生まれ育った結果、
神社の鳥居とかお寺の空気などに嫌悪感を持ってきた。
その一種の洗脳を解いてくれた(少なくとも神社の鳥居には)のは
山田洋二の「寅さん」だったかもしれない。
海の近くの神社。
青く晴れ渡った空と海。
一番いい場面で登場する鳥居。
映画による刷り込みか?
なぜか「俵万智」を読んでいる。
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自伝エッセイ集、とある。
エッセイってウソを書いてはいけないのだろうか?
ウソと言っても小説のような、いわゆるフィクション。
余りに出来すぎた事柄って
「え 本当にあったの?」と思ってしまうが
文章を書くのが仕事なんだから
「こうであって欲しい」
と思って書いても何も問題ないとは思う。
そんな一場面。
私(俵)の誕生日は12月31日。生まれたとき、いろんな人から「どうせなら1月1日にしたらいいのに」と言われたが、父(物理学者)の「生まれたときから偽りをするのが嫌」という理由で31日のままになった。
結果、当然誕生日のお祝いは忙しさに紛れていつもあやふやなまま。
(以下原文通り)今日は暇なんで・・・
そんなわけで二十数年間、我がバースデーはどさくさに紛れるのが常であった。が、ただ一つだけ、忘れられないできごとがある。
例年のごとく、ジーンズに割烹着という大そうじスタイルで窓を拭いていた。十代も終わりに近づいた誕生日。福井には珍しく雪のない冬だった。突然、家の前にバイクが止まった。花束が近づいてくる。ピンポーンとドアチャイムが鳴らされる。
二階の窓から一部始終を見ていて、事態を把握した私は、あわててモヘヤのセーターに着がえ、降りて行った。
高校のクラスメイトだった男の子が、ニコニコして立っている。「はい、オメデトウ!いつだったかボヤいていただろう、誕生日の当日に祝ってもらったことがないって」
ボヤいてみるものだ。赤いバラとかすみ草の花束。そして一冊の本。それだけ手渡すと、「じゃ、ぼくも大そうじがあるから」と言ってさあっと帰ってしまった。本のタイトルは「数学のたのしさ」。高校時代、まるで数学オンチの私だった。試験前には、よく彼に面倒をみてもらったっけ・・・・・。
(以上原文通り)
私(俵)は彼のどの部分に一番ひかれたのでしょうか?
やよい:そりゃあ花束じゃないの?日本人でそんなことが普通にできる人はいないし、だから、そうされたら嬉しい。
和:「じゃ、ぼくも大そうじがあるから」と言ってさあっと帰ってしまった
ここだと思う。ちゃんと大晦日に大そうじをする家庭で、彼もしっかりそれを手伝う、そんな彼に胸キュン。(古い?)
それはともかく、余りにも出来すぎた話だと思うが、こんなことがあったらいいのに・・・とは多くの女子が願うことかも知れない。例えエッセイ(ホントのことを書くのがタテマエ)であっても、多少の脚色は許される(しなければならない)と思うのですが。