嵐が去ってモーツアルトを聴く

今日の昼になってもまだ強風が吹き荒れている。
春の強烈な洗礼。


今日のカレーやのBGMはモーツアルト

モーツアルトを聴いていると
とても満たされた高貴な気分になる。
天気のいい、暖かい昼下がりにピッタリの音楽。

曲をひねり出して無理に作ってないので(多分そうだと思う・・・いろんな人も言っているし)聴く方も無理なく聴ける。
流して聴ける、というのだろうか。

それにしても最近モーツアルトのレクイエムを聴くと
あのミキティの苦悶に満ちた顔が浮かんできてしょうがない。
すっかりおかしなイメージが植えつけられてしまった。

曲を言葉や映像でイメージ付ける怖さがある。

解説付きのコンサートの危うさ。
かといってコンサートに来る観客は減るばかり。

どうしたらいいのでしょうか。




・・・遠藤周作の「沈黙」再読中。

沈黙 (1966年)

沈黙 (1966年)

キリスト教が禁止されている時代に日本に潜伏したポルトガルの宣教師は
司祭を渇望していた隠れキリシタンの村人に会うが
彼らが求めている宗教観との違いを感じ、布教する矛盾を思う。

聖書のに書かれている、キリストを裏切ったユダとキチジロウを重ねあわせて
神の救いと許しの答えを考え続ける。

役人から逃れるため山をさまよう。
飢えと疲労に身も心も極限に達しようとしている時
「もし神が存在しなかったら、自分の行動はなんと滑稽なことなんだろう」
という、聖職者としてキリスト教徒として
最も考えてはならない事が頭をかすめる。

それは、これだけの殉教者を出しながら
これだけ神に救いを祈っても
ひたすら神は「沈黙」するのみ・・・



やはり素晴らしい小説だ。