知られたくない過去もある

快晴!冬型の気圧配置。


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知人海岸の方に行く道の途中にある廃屋。
かなり傾いているが、まだしっかり建っている。
ほぼ木造建築で、いたるところ朽ちている。

よーく見てみると屋根のひさしの部分とか、窓枠などが
この建物がかなりしっかりお金をかけて造られたものだと想像させられる。


いつ頃造られたのか、どのような人が住んでいたのか興味は尽きない。



休坂を始める前、釧路に住み始めた頃、米町の奥、弁天が浜近くに「元遊郭」だったという古い建物が残されていた。「たかの旅館」だったか。

その後、米町再開発という名のものに付近の風景が一新した。
古い建物(住宅)は建て替えられ歩道はカラー歩道になった。
http://www.hokkaido.doyu.jp/kushiro/fukuoka/takano.htm


弁天が浜にある「米町ケアハウス」の横に奇妙な民家がある。
カラー歩道のブロックに、宮沢賢治の「雨ニモマケズ・・・」の詩が全文書かれていたり、金子みすずの詩やら、般若心経が書かれていたり、美人しか映らない鏡、というのがあったりで、おもしろそうだけど少し離れて見たい場所だった。

ところが昨日同行したマスコミ関係者は、たまたま外に出ていたこの家の主らしき人に声をかけてしまった。
少し耳が遠いようなしぐさをするが、ゆっくり話すと普通に会話ができた。

カラー歩道の詩も、近所の子どもたちには人気で、暗証できる子もいるそうだ。
このカラー歩道のブロックは、この付近の歩道がカラー歩道になった時、余ったブロックが家の前に放置されているのを譲り受けたものだという。

塀の角にはこのようなオブジェが建っている。
もちろんここの家主が造ったものだ。

「この付近は釧路空襲の大きな被害があった場所なんだ。その時の名残のものがあるから・・・えーっとどこだったけなあ・・・・・あー あったここだ」
と指差した先には鉄の筒のようなものがコンクリートの中に埋もれていた。

空襲の後に落ちていた薬きょうだという。

塀の横には立派な鬼瓦が二つ置いてある。
家主に聞くと、やはりかつての遊郭の門の一部だという。

「ほらそこの、黒い柱があるだろ。これも遊郭の建物の柱さ。悲しみの柱だ」


悲しみの柱


詩人だ、家主は。



この付近で、かつてどのような悲しい歴史があったのか。


旅人は勝手に「古いものは残して欲しいよね」などと言うが
ここに長年住み、ここの様々な歴史を知る人たちの中には
消えて欲しい歴史やそれにまつわる建物もあるのかもしれない。

なぜ「米町再開発」であれほど完璧に造り変えてしまったのか。
わかる気がした。